NOW ON AIR !

番組表
HOME 番組紹介 U-doki 特集 終戦から80年、宮崎に刻まれた空襲の記録(2025年05月03日放送)
U-doki
U-doki:
特集
番組TOPに戻る

2025年05月05日

終戦から80年、宮崎に刻まれた空襲の記録(2025年05月03日放送)

2025年、終戦から80年という節目の年を迎えました。
宮崎県内にも戦争の記憶は深く刻まれています。
今回は、宮崎市と延岡市に残る空襲の記憶をたどり、その痛ましい歴史についてお伝えしました。

県内各地に残る空襲の傷跡

01 県内の空襲の傷跡

郷土戦史研究家の稲田哲也さんがまとめた資料によると、宮崎県内では判明しているだけでも92回の空襲があり、662人もの命が失われました。
陸海軍の主要な飛行場があった場所を中心に、多くの被害が発生しています。

宮崎空港に残る戦争の爪痕

南国の玄関口として観光客が訪れる宮崎空港。
しかし、ここはかつて「海軍航空隊宮崎基地」として、大型機パイロットの育成や戦闘機の前線基地となっていました。

1945年3月18日、県内で初めてアメリカ軍の空襲を受けました。
海軍兵の川越質(ただし)さんが残した戦闘記録には、グラマン40~50機による激しい攻撃があったことが詳細に記されています。

02 戦闘記録

「雲雀の群れ遊ぶが如くハッキリ見える。敵も激しく反復攻撃を繰り返す。我が方の損害も甚大、航空隊の格納庫も兵舎も焼土と化す」

03 沖縄周辺へ特攻出撃

特攻隊の出撃基地としても機能していた宮崎基地からは、3月21日以降、44機が沖縄周辺へ特攻出撃。
131人が命を落としました。現在の宮崎空港からは想像もできない、激しい戦場だったのです。

延岡市の焼夷弾攻撃

04 原田格(いたる)さん(91歳)

1945年6月29日、未明の空を切り裂く空襲警報の音と共に、延岡市はB-29爆撃機による焼夷弾攻撃を受けました。
当時、小学6年生だった原田格(いたる)さん(91歳)は、高台から街が炎に包まれる様子を目の当たりにしたといいます。
当時は、赤痢にかかり防空壕に入れず、茶園から様子を見ていたのだそうです。

延岡市内の被害は甚大で、130人の死者、3765戸の家屋が消失(※1945年7月1日時点の調査)。
慰霊碑には300人以上の犠牲者の名が刻まれています。

05 甲斐秀人さん(69歳)

延岡市大貫町に住む甲斐秀人さん(69歳)の実家も、この空襲で焼夷弾の直撃を受け消失しました。
甲斐さんは南方の歴史文化研究会の協力を得ながら、戦災記念碑の被災世帯名をもとに住所を割り出し、自ら子孫をたずね歩き、被災した世帯を地図に記録するなどの活動を行っています。

06 地図

地図は、約1年かけて去年12月に完成。
延岡の街に刻まれた傷跡が地図上に可視化され、後世に伝えられることになりました。

引き揚げの記憶と戦後の暮らし

07 児玉千恵子さん(93歳)

戦時中を海外で過ごした人々もいます。
児玉泰一郎アナウンサーの祖母で、小林市に住む児玉千恵子さん(93歳)は、北朝鮮で生まれ、日本人と朝鮮人が通う女学校で学んでいました。
1945年、10歳の時に太平洋戦争を経験しました。

08 当時の写真

当時の朝鮮の人と日本人との関係について「差別もなく普通の友達で仲良くしてもらっていた」と千恵子さんは振り返ります。
しかし、終戦を迎えた日、朝鮮人の同級生が喜ぶ姿を目の当たりにし、複雑な感情を抱いたといいます。

その後、千恵子さんは韓国・釜山から引き揚げ船で日本に帰国。
家族11人での生活は決して楽ではなく、母親はリアカーにアイスキャンディを積んで街を歩き、生計を立てました。

「戦争は好かんかったから思い出さんようにして、こどもたちにも話してこなかった。戦争は絶対いかん。」

戦争の体験を語る人もいれば、つらい記憶として心の奥にしまう人もいます。しかし、皆が口を揃えて言うのは「戦争はいけない」という言葉です。

戦争を知る世代が少なくなる中、記録を残し、未来へ伝える努力が続いています。
宮崎の地で起きた悲劇を風化させないために、地元の研究者や市民が、証言を記録し、地図を作り、慰霊碑を守り続けています。
80年という時を経て、記憶を繋ぐ努力は次の世代に平和の重要性を訴え続けます。

情報募集中!

エンタメ情報募集中!

U-doki公式facebook U-doki公式Instagram
番組へのご意見ご感想はこちらから

Top