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2022年08月15日

終戦から77年、未来に残す戦争の記憶(2022年08月13日放送)

終戦から77年、戦争の悲惨さを生の声で伝えられる人たちが年々減り続けています。
戦争経験者だからこそ伝えられる平和の尊さを私たちは後世に語り継いでいくことが求められています。

01 庭月野 英樹さん

元特攻隊員 庭月野 英樹さん(96)
宮崎市在住(鹿児島県出身)。1944年4月に18歳で沖縄海軍航空隊に配属。
当時の経験は今でも脳裏に焼き付いています。

02 1944年4月 沖縄害軍航空隊へ

1944年10月10日 沖縄 10・10 空襲

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    戦闘ラッパが鳴り響きました。初めて聞きましたね。沖縄の空港に向かってグラマン(敵機)が突っ込んできました。どす黒い飛行機がとにかく不気味でした。陸上に落とされた飛行機を見ましたね。落ちる時にあっちこっち破れてちりぢりになっていましたよ。

庭月野さんは、1945年3月に石垣島の部隊に派遣されます。
するとほどなくして米軍が沖縄本島に上陸し、沖縄航空隊は全滅しました。

03 集合写真

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    同期生の花田というのが空港まで見送りにきて、「長いことお互いに世話になったな、これがしかし別れだろう」と言っていましたら、そのとおり別れでした。良い男でした。

帰るべき本隊を失った庭月野さんは、台湾の別の部隊へ編入されます。そこは特攻隊でした。

04 特攻部隊へ

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    夜間飛行の訓練ばかりしていました。我々が行かなければ、たくさんの人が殺されるのだと、行くのが当たり前だというふうに思っていましたよ。自分の親兄弟はどうしているかなと思ったりしましたけど、考えてもしょうがない話で、遠い所に離れていますし、手紙を書いたって届くわけがないし。

出撃に備えて訓練を積んでいた庭月野さんですが、今度は千葉県の海軍木更津基地彩雲隊に転勤となります。この舞台は当時最新鋭の偵察機「彩雲」を運用していましたが、ここもまた本土決戦に向けての特攻隊でした。

05 偵察機「彩雲」

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    俺の棺桶は立派なものだと思っていました。棺桶ですから、特攻隊と言いますと。

そして、1945年8月15日、庭月野さんに出撃命令が出されていたというまさにその日、終戦を迎えました。

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    (ラジオで聞いた)「忍び難きを忍び」という言葉だけは覚えています。木更津から飛行機で飛んで帰ってみると、もうほとんど丸焼けでしたよ。街という街は全部焼けていましたから。

部隊は徳島県に移動し8月23日に解散。庭月野さんの戦争は終わりました。

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    生き残って良かったですね。こんな良い世の中がくるとは思っていませんでした。ものも豊かで人の心も豊かだし、こんな良い世の中はずっと続いてほしい。
講演会の様子(2020年10月)

06 講演会の様子

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    皆さんはこんな平和な良い時代に生まれて良かったですね。戦争というのは二度とあってはならないと思っています。

庭月野さんは、終戦後、航空大学校の教官などを経て、語り部として活動。

2018年には、旧日本軍の攻撃で日向灘に墜落した米軍のB 29「サルボサリー号」の唯1人の生存者、ジャック・キャノンさんと対面

07 ジャック・キャノンさん

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    敵という感覚はありませんでしたね。戦争というのは、その時の国の状態で始まったことで、同じ搭乗員だなと思いましたよ。同じ人間だなと。

しかし、ジャック・キャノンさんは2021年に他界(享年96)、日を追うごとに戦争経験者が減っていく現実に寂しさを感じながら、庭月野さんは講演会など大勢の前での語り部活動を引退しました。

  • 【話:元特攻隊員 庭月野 英樹さん】
    まともに話ができるのも今年ぐらいまでではないでしょうか?本当に肝胆相照らす相手がいなくなりました。世の中が寂しいですね。

終戦から77年、戦争経験者が減り続け、平和の尊さをどう後世に語り継いでいくかが課題となる中、コロナ渦をきっかけに宮崎市のある場所が注目を集めます。

宮崎の空の玄関口「宮崎ブーゲンビリア空港」

宮崎ブーゲンビリア空港

ここはかつて太平洋戦争中、「海軍航空宮崎基地」という特攻隊も出撃した旧海軍の基地でした。
宮崎空港の近くには、掩体壕や弾薬庫など今も当時を偲ばせる様々な戦争遺構が残されています。

08 戦争遺構

コロナ渦で県外への修学旅行に行けなくなった県内の多くの小中学校が、人の目に触れる機会がほとんどなかった「戦争遺構」で、修学旅行の平和教育を行うようになりました。

  • 【話:宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会 川越 賢二 事務局長】
    この機銃で空に向かって撃っていました。だけど飛行機はその上を飛んでいるから、いくら撃っても当たらなかった。だから墜落することはなかなかできませんでした。

敵の攻撃から戦闘機などを守るために造られた掩体壕。
当時、約50基の掩体壕が造られ、6基が現在もほぼ完全な状態で残っています。

  • 【話:宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会 川越 賢二 事務局長】
    掩というのはものを覆う、体は飛行機のことです。飛行機を覆う穴で掩体壕と言います。この掩体壕を造るために、当時、今ここにいる生徒の皆さん(と同じ世代)がみんな集められていました。

【生徒の感想】

  • 小学生から中学生までいろいろな子たちが学校にも行かず、戦争のため国のためにしていたのだなと学べて良かったです。
  • 戦争は世界で二度とやってはいけないと思うし、みんなが安心安全で何も困らないような世界になってほしいと思います。

ボランティアで子どもたちを受け入れている「宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会 後藤 徹夫 副会長」は長年、戦争遺構の重要性を訴えてきました。

09 後藤 徹夫 副会長

  • 【話:宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会 後藤 徹夫 副会長】
    地元の人たちが、ここが特攻の基地だったということも知らないのです。やはり私たちが残していかなければならない特攻の遺構を次の世代で守っていっていただきたい。ゆくゆくは何人からの若い人が入ってきて、私たちの意志を引き継いでくれたら、こんなにうれしいことはないと思っています。

こうした地道な活動も後押しとなり、宮崎市は2021年に約7,500万円をかけ、掩体壕1基を取得・整備しました。

  • 【話:宮崎特攻基地慰霊碑奉賛会 後藤 徹夫 副会長】
    これを保存するということが一つの私たちの夢でしたので、非常にありがたいと思っています。ここが戦場だった、多くの特攻隊員が最後の地として飛んで行ったということをじかに見ることで、子供たちはより理解できると思っています。

戦争経験者の貴重な証言が減り続ける中、戦争遺構は私たちに平和の尊さを静かに語りかけています。

終戦から77年、改めてこの機会に戦争の歴史に触れて平和の尊さについて考えるきっかけにしてみてください。

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