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特集
2025年12月01日
支えてくれた家族へ恩返しを──デフバスケットボール日本代表 日南市出身・井上和選手(2025年11月29日放送)

4年に1度開催される、聴覚に障害のあるアスリートのための国際大会「デフリンピック」。
デフスポーツはパラリンピックには含まれておらず、デフアスリートにとっては、唯一で最高の舞台です。
デフリンピックは、聴覚障害者の社会的な地位の向上と手話への理解促進を目的に1924年フランスのパリで始まった大会で、100周年という記念すべき今回、初めて日本で開催されました。
今回は、デフバスケットボール日本代表 副キャプテンとして出場した、日南市出身・井上和(いのうえ・なごむ)選手(31)に密着しました。
日南市出身 日本代表・井上和選手

和さんは現在、大阪で働きながら一人暮らしをして競技を続けています。
これまでアジア大会や世界選手権など、さまざまな国際大会で活躍してきた和さん。
デフリンピック出場は17歳の時に出場して以来、今回で2回目となります。
「今年は日本での開催なのでたくさんの方に見に来てもらいたいです」と日本での初めての開催を喜びます。

地元宮崎には、定期的に帰省。U-15バスケチームのコーチとして指導も行っています。
いじめや挫折を乗り越えた日々
和さんは4人兄弟の末っ子として誕生。
兄弟の中で唯一、生まれつき聴覚に障害がありました。
耳が聞こえないと気付いたときはショックを受けた母・映子さんでしたが、「この子のためにできることはなんでもしよう」と、幼少期には都城市のろう学校に毎日送り迎えをし、言葉の学習に力を注ぎました。
その甲斐もあり、和さんは小学校からは兄弟たちと同じ一般校に通い、そこで兄の姿に憧れてバスケットボールを始めます。
学校に毎日送り迎えをし、言葉の学習に力を注ぎました。
その甲斐もあり、和さんは小学校からは兄弟たちと同じ一般校に通い、そこで兄の姿に憧れてバスケットボールを始めます。
「こんな楽しいスポーツがあるんだと思いました」と話す和さん。
バスケットボールは和さんの生活の中心となり、プロの選手になることを夢見るようになりました。
しかし、中学時代には聴覚障害が理由のいじめに悩まされ、希望していたバスケットボール強豪校への進学を断念。
転入した高校(ろう学校)ではバスケットボール部がなく、陸上部に入部。
「なんで自分は耳が聞こえないのか」と思い悩む日々が続いたといいます。
反抗期もあり親にぶつかってしまったこともありましたが、それでも変わらず応援してくれた家族の存在が和さんを前向きにしていきました。
その後、陸上を続けながらも地域のバスケチームで練習を重ね、17歳の時に、初めて日本代表に選ばれました。
日本初開催のデフリンピックへ

そしていよいよ11月15日に開幕した東京2025デフリンピック。
世界約70カ国から3000人以上のデフアスリートが参加しました。
12日間にわたったこの大会では、当初の観客動員目標10万人を大きく上回り、28万人超 の来場となりました。
デフリンピックは音が聞こえない代わりに「視覚による情報補償」が大きな特徴で、デフバスケットボールでは、審判の笛やブザーの音を"光"でも知らせます。
また、全ての競技で「試合中は補聴器や人工内耳を外す」というルールがあり、選手たちは完全な"無音"の中でプレーします。

日本代表(世界ランキング19位)の初戦は、世界ランキング1位のウクライナ。
強豪相手に善戦しましたが敗戦。
続くアルゼンチン(世界ランキング5位)戦では接戦を制し、会場を大いに沸かせました。
予選最終戦のイスラエル(世界ランキング8位)戦は、決勝トーナメント進出を懸けた大一番で、会場の応援にも熱が入ります。

和さんの姉・はるかさんは「試合を見れる機会がなかなか無い中、大きな舞台で輝く姿を見られて姉として誇らしいです」語り、父・洋一さんは「最後になるかもしれないから、精一杯応援する」と涙ながらに話します。
そして母・映子さんは誰よりも大きな声で声援を送りました。

日本は強豪相手に食らいつき、激しい接戦を繰り広げましたが、残念ながら勝利には届きませんでした。
試合終了後、和さんは応援席の家族に向けて涙を拭きながら「ありがとう」を伝え、家族も「よく頑張った。ありがとう」と伝えました。
音は届かなくても、思いは届く
試合中、家族や観客の声援は音としては届きません。
しかし和さんは「気持ちはしっかり伝わってきます」と話します。
「学生時代はよく怒られたし、喧嘩をして部屋にひきこもったりした。それでも変わらず、わがままな自分をずっと応援してくれた」という家族に対して、和さんは「少しでも親孝行がしたい。こんな僕を産んでくれてありがとうと伝えたいです」と感謝の思いを語りました。





