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遺族さえ知らなかった...真珠湾攻撃に宮崎県出身21人 搭乗員の足跡を研究家が調査「彼らの存在した事実を消してはならない」薄れゆく戦争の記録と記憶

2025年12月11日

日米開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃から12月8日で84年。宮崎市の郷土戦史研究家・稲田哲也さんが行った調査により、真珠湾攻撃に宮崎県出身の航空機搭乗員が少なくとも21人参加していたことが新たに判明した。その多くは遺族すら知らなかった事実であり、戦争の記憶の継承の重要性を改めて浮き彫りにしている。

宮崎出身の航空機搭乗員21人が真珠湾攻撃に参加

宮崎市に住む郷土戦史研究家の稲田哲也さん。

東京・市ヶ谷の防衛研究所に残る飛行機隊戦闘行動調書や、宮崎の生存者がまとめた戦友会の名簿を基に、真珠湾攻撃に加わった県内出身者の調査を続けてきた。その結果、パイロットなどの航空機搭乗員が少なくとも21人いたことが今回新たに分かったという。

遺族に伝えられた伯父の足跡

この日、稲田さんは、判明した搭乗員の一人である阪本憲司さんの姪・佐藤智子さんの自宅を訪れ、真珠湾攻撃当日、阪本さんがどのように戦いに関わったかを伝えた。

郷土戦史研究家 稲田哲也さん:
編成表。阪本さんは操縦員、ここですね。憲司さんの機はこの日は水平爆撃。アメリカに致命傷を与えたのは、実は水平爆撃隊なんですよ。

阪本さんは18歳で海軍の甲種予科練に合格してパイロットとなり、空母「飛龍」に配属され、真珠湾攻撃に参加した。佐藤さんの母とは20歳離れた兄妹であったという。

阪本憲司さんの姪 佐藤智子さん:
戦闘機に乗っていて特攻で亡くなったと母から聞いていた。きっとこれが伯父が生きた証であって、私たちのために頑張ってくれたんだなと思う。

 消えゆく記憶と遺書の証言

稲田さんの調査を基に、隊員たちの実家の住所を訪ねると、真珠湾攻撃の記憶が薄れつつある現状が見えてきた。

空母「加賀」から出撃し、真珠湾で亡くなった宮崎市の熊本研一さん。

近所の人々によると、かつてこの地には熊本家が住職を務める寺があったが、現在は空き地となっていた。

また、同じく「加賀」から出撃し、真珠湾で亡くなった三股町の桑畑一義さんについては、今回、桑畑家の戸籍にその名前が確認できた。

桑畑一義さんの遺族 桑畑喜芳さん:
私のじいさんのいとこで、ここに出てくる。先祖が真珠湾攻撃に携わっていた、関わっていたということに対してはびっくりした。優秀だったんでしょうけど...。

取材を進めるうち、新たな事実も明らかになった。宮崎市の遺族会館資料展示室には、真珠湾攻撃に参加したとみられる隊員の遺書が展示されている。

(宇和数夫さんの遺書)
「昭和16年12月7日ハワイ攻撃前日 我は再び生を得て帰艦せじと 此処に頭髪を残す」

この遺書を残したのは宮崎市高岡町の宇和数夫さん。防衛研究所に残る真珠湾攻撃の戦闘行動調書には、名前のない人物だ。しかし、遺書はこう続く。

(宇和数夫さんの遺書)
「我が爆撃隊は敵戦闘機約百機より待期し居るホイラ飛行場に爆撃を敢行し之を破壊焼上せしむるも我が軍は一機の犠牲者も出でず全機無事帰艦せり」

真珠湾攻撃でホイラー飛行場を爆撃した空母「瑞鶴」の艦上爆撃隊の名簿は、25機のうち5機分しか残っていない。稲田さんは遺書の内容から「宇和氏も真珠湾攻撃に参加していた可能性が高い」と話す。

郷土戦史研究家 稲田哲也さん:
実際に参加した人しか知りえないことが書いてある。(遺書の)「全機無事に帰って来た」。行動調書を見ると「艦爆隊全機収容」と書いてある。この辺も記述が合致している。この25機の中に宇和さんはいたのではないかと思われる。

宇和さんの実家を訪ねたところ、遺書を寄贈した兄の利夫さんやその息子はすでに他界しており、詳しい話を聞くことはできなかった。

戦争の記憶を未来へつなぐ教訓

稲田さんは「遺族すら絶えた家庭もあり、身内がいなくなったということは、その人の存在がなかったことになる。彼らの存在した事実を消してはならないという思いで真珠湾攻撃の調査・再調査をしている。これだけの人数が判明したことは、非常に意義があった」と話す。

真珠湾攻撃を前に海軍が訓練を実施していた場所は、鹿児島県の錦江湾だった。真珠湾と地形が似ていることから、錦江湾で演習を行った上で、日向市の富高や大分県の佐伯などの基地で仕上げの訓練を行い、隊員たちはハワイへと向かったという。

後世を生きる私たちが戦時下の出来事を知ることで、家族すら知らなかった新たな事実が判明することもある。このことが、日本が二度と戦争に関与しないための教訓へとつながっていく。

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