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万博パビリオン再利用の"先駆け" 70年大阪万博「シンガポール館」が宮崎で迎えた"第二の人生"と独立直後の"絆"が紡ぐ交流の歴史
2025年10月29日

70年に開催された大阪万国博覧会(大阪万博)に出展された「シンガポール館」が、宮崎県に運ばれ移設されていた。24年後に台風で倒壊してしまったが、シンガポールと宮崎の植物園は「姉妹植物園」として交流を続けている。そこには独立直後からの"絆"があった。
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万博閉幕後にパビリオン移設
大阪・関西万博が10月13日に閉幕した。日本国際博覧会協会によると、海外パビリオンのうち、オランダ館など4館は国内外に移設され、再利用されることが決まっている。

パビリオンの移設は55年前の大阪万博の時も行われていて、実は「シンガポール館」が宮崎県に移設されていた。
万博「シンガポール館」の第二の人生
70年の大阪万博で展示されたシンガポール館は、ヤシの葉で覆われ、左右が高く尖った形が特徴的な小屋だ。

1940年の万博計画から今年の大阪・関西万博までの歴史をまとめた「日本万博全史」の中で、シンガポール館は1970年12月、宮崎市の県立青島亜熱帯植物園に搬入されたと紹介されている。

なぜ、シンガポール館は宮崎市の青島亜熱帯植物園に移設されたのだろうか?「日本万博全史」の作者でノンフィクション作家の夫馬信一さんに話を聞いた。

ノンフィクション作家 夫馬信一さん:
万博の記念公園の事務所というのがある。ここに1970年の大阪万博の資料が眠っていて、探しているうちにシンガポール館の顛末がわかってきた。
姉妹植物園としての深い縁
夫馬さんはシンガポール館が青島亜熱帯植物園に移設された理由として、両植物園が「姉妹植物園」という関係にあったことを挙げた。

宮崎公園協会によると、1965年10月、青島亜熱帯植物園とシンガポール植物園は「姉妹植物園」を締結している。

この締結は、シンガポールがマレーシアから独立した直後に行われたものだった。
独立直後のシンガポールの「切実な思い」
夫馬さんは当時のシンガポールの情勢を考えると、宮崎に「シンガポール館」を寄贈したのには、切実な思いがあったのではないかと話す。

ノンフィクション作家 夫馬信一さん:
シンガポールは当時、本当に産業もないし、非常に心細い状況だったはず。独立してすぐに姉妹関係を樹立してくれた縁とゆかりのある青島亜熱帯植物園にパビリオンを寄贈しようというのは、シンガポール側としては特別な思いがあったのではないかなと思う。
度重なる台風により倒壊し、撤去された

現在、県立青島亜熱帯植物園は名前を変えて「宮交ボタニックガーデン青島」となり、宮崎を代表する観光地・青島エリアを形成するスポットのひとつとして親しまれている。

当時の図面を見ると、シンガポール館は幅約9メートル、奥行約3メートルのこじんまりとした施設だったことが分かる。

宮交ボタニックガーデン青島の指定管理者、みやざき公園協会の吉田晋弥理事長に、シンガポール館の跡地に案内してもらった。青島海岸を臨める、ワシントニアパームが立ち並ぶ一角に、シンガポール館があったという。

吉田さんは1979年から公園協会に勤めていて、シンガポール館のことをよく覚えていて、「当時はここが通路でまっすぐ沿道があって、シンガポール館が"どんっ"とありました」と話した。小さいながらも存在感があったことがうかがえる。

また吉田さんは、「当初はカフェや休憩所としてジュースを提供したり、シンガポールの物品を販売したり、シンガポールとの親善を含めた中で販売をしていたと聞いています」と、当時のシンガポール館の役割を教えてくれた。

しかし、移設から24年の間、海岸近くにあったシンガポール館は度重なる台風にさらされ、1994年の台風で完全に倒壊してしまったという。

みやざき公園協会 吉田晋弥理事長:
海から風が来て、台風で何度か倒れている。補修して、完全木造だったんですけど、鉄筋、鉄骨で作り直した。平成6年(1994年)に完全に倒れて、もう補修が難しいということで、完全に撤去した。
建物は失われても交流は続く
建物は失われたが、シンガポール植物園からブーゲンビリアなどの植物が贈られたり、技術的な意見交換が行われたりと、交流は現在も続いている。

幻となったシンガポール館は、独立間もないシンガポールと、日本の南国である宮崎が、その後、植物を通じて親交を育むきっかけとして大きな役割を果たしていた。
「姉妹植物園の証」に刻まれた両植物園の"絆"
宮交ボタニックガーデン青島の中心施設、「大温室」の中には、「姉妹植物園の証」というプレートが掲示されている。

シンガポール植物園と日本国宮崎県立青島亜熱帯植物園との間で相互に技術の提携および植物の交換等を行い、もって両植物園の発展に寄与し、また、このことがシンガポール国民と日本国民の親善を深める礎となるよう両植物園を姉妹植物園とすることに定め、ここにこの証を交換します。
1965年10月15日
日本国宮崎県知事 黒木博
吉田さんによると、当時の黒木知事は直接シンガポールに出向いて、姉妹植物園になってほしいと依頼した。県立青島亜熱帯植物園の開設にあたって技術協力を依頼するためだったとみられている。大阪万博はこの5年後に開催され、「シンガポール館が欲しい」とシンガポール政府に依頼したのも当時の黒木知事だったという。

「姉妹植物園の証」の近くには、マーライオンの像も設置されているほか、「シンガポール植物園から寄贈された植物一覧」という案内板もある。両植物園のつながりの強さを感じさせる空間だ。
2025年の大阪・関西万博から移設される4つのパビリオンは、これからどんな交流を紡ぎ、新たな歴史を作っていくのだろうか。











