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「戦争は何も残らない 不幸だけが残る」児童5人含む10人が犠牲となった米軍機襲撃から80年 悲劇を語り継ぐ91歳の女性
2025年08月15日
2025年は「戦後80年」を迎える年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに戦争についての企画を放送している。終戦5日前の昭和20年8月10日、宮崎県小林市で米軍機による機銃掃射があり、奉仕作業に向かう小学生など10人が犠牲となった。小学校に残る「学校日誌」と、生存者の記憶から、戦争とは何かを考える。
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空襲警報下の学校生活を記した「学校日誌」
西小林小学校(当時・西小林国民学校)には、学校での様子を教師が記録した「学校日誌」が残されている。明治から昭和まで、実に約100年分の貴重な資料が、現在も保管されている。
戦時下の1945年度(昭和20年度)の日誌には、空襲警報下で続けられていた学校生活の様子が克明に記録されている。
ある日の記述には「体錬大会ハ取止メルコト決定」つまり、空襲のため、運動会が中止になった事が記されている。
5月1日の記述には「空襲警報発令中、家庭訪問実施」つまり、「空襲警報が発令されている中で家庭訪問が行われた」と書かれている。戦時下での学校生活の様子が伺える。
その日誌の中に、他とは違い、欄外にまでびっしりと文字が綴られているぺージがある。1945年8月10日。他の日とは異なる、緊迫した状況が記されている。
「突如トシテ敵機200米位ノ低空二降下シ、機銃掃射ヲナス」
昭和20年(1945年)8月10日 午前9時30分、奉仕作業に向かう児童たちの列に、米軍機が機銃掃射を行った。太平洋戦争末期、宮崎県内各地で駅や港が機銃掃射の標的となる中、西小林駅付近で起きたこの襲撃では、国民学校の児童5人を含む10人が死亡、18人が負傷した。
生存者の証言:機銃掃射の恐怖と友人の最期
当時11歳だった木佐貫ヒサエさん(91)は、襲撃の瞬間を、今も鮮明に記憶している。
木佐貫ヒサエさん:
きょうは奉仕作業だから何のおやつが渡るのかなとか、そんな話をしていた。低空で飛行機が来て、その時は友軍機だと思ってたんよね。みんなこうして見てたから。(機銃掃射を受けて)手や頭がなくなった人もいた。
犠牲となった10人のうち7人は即死だった。木佐貫さんの友人は、亡くなる直前まで「お父さんに水がほしいほしい」と訴えていたという。兵隊に「水飲んだらだめよ死ぬよ」と言われたという。
木佐貫さんも右腕と脇腹を銃弾がかすめ、大けがを負った。
木佐貫ヒサエさん:
骨が見えていたそうですからね。治療のときは痛かったけど、けがした当時は本当に痛くなかったです。
学校日誌に残る襲撃の記録と後世への伝承
8月10日の学校日誌は、「応急処置 軍ヨリ非常ナル応援ヲ受ケタリ」「午後 見舞 弔問ヲナス」と、襲撃の後の対応についても記されていた。
襲撃現場は、当時も今も小学校の通学路だ。木佐貫さんの娘・加藤涼子さんは、現場を案内しながら、母親から聞いた戦闘機の飛来状況を説明してくれた。
木佐貫さんの娘・加藤涼子さん:
あの方向からずっと低空飛行で来て、この辺でダダダッとやられた。母が言うにはパイロットと目が合うくらいの近さだったと聞いています。
慰霊集会と平和学習:次世代に伝える戦争の悲惨さ
西小林小学校には、犠牲者10人を悼む石碑が建立されている。
石碑には、犠牲となった10人の名前が刻まれている。犠牲者の中には、沖縄からの疎開者もいたという。
西小林小学校では、当時の出来事を子供たちに伝え続けるため、毎年、慰霊集会が開かれている。
校長は、子供たちに8月10日の学校日誌を示しながら話をした。
西小林小学校 谷之木智子校長:
悲しい出来事の中、これを記録しておかないといけない。残しておかないといけない。そういった思いで、日誌の枠の外にもいっぱい文字が残されています。
当時の出来事を伝えるため、校長室に飾られていた「あの日の経験が描かれた絵」は、去年、子どもたちの目に触れやすい階段の踊り場に移された。
西小林小学校 谷之木智子校長:
平和を願う、その思いを持ち続けることができるように、子どもたちに伝えていきたいと思っている。
児童からは「僕はもう二度と戦争をしたくないと思った」「人や自分の命をもっと大切に扱って、相手の気持ちとかがよくわかる人になりたい」といった声が聞かれた。
戦争の無意味さを訴える生存者の願い
木佐貫さんは2年前はこの集会に参加して、子供たちに直接、戦争体験を伝えていたが、今ではそれも難しくなっているという。
あの悲劇、そして終戦から80年。
木佐貫さんは「何も残らないですよね、戦争は。何か良いことがあるなら教えてもらいたいと思います。戦争は何にもならない、不幸だけが残るんだということを一番伝えたい」と、戦争の無意味さを訴えた。