番組表

2025年06月23日 18時15分
【戦後80年企画】沖縄慰霊の日 ”宮崎の沖縄”の名残・証言を次世代に

特集は「戦後80年、過去を知る未来に伝える」。
きょう6月23日は「沖縄慰霊の日」です。
沖縄では、太平洋戦争末期の1945年3月から6月にかけて、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられました。
犠牲者は20万人を超え、沖縄県民の4人に1人が亡くなったといわれています。
当時、宮崎は沖縄からの疎開者の受け入れ先でした。
宮崎市波島地区もその一つで、そこに疎開してきた戦争経験者の証言、語り部活動をもとに沖縄戦の悲惨さ、平和の尊さについて考えます。
6月20日、宮崎市の宮崎東小学校で、小学5年生を対象に戦争の悲惨さを伝える特別授業が行われました。
講師を務めたのは、宮崎で語り部として活動する常盤泰代さん。
この日は、リモートで、沖縄県糸満市にある平和の礎を繋ぎました。
宮崎東小学校で毎年平和学習を行っているのは、校区に太平洋戦争当時沖縄からの疎開者を受け入れていた波島地区があるからです。
波島地区には沖縄からおよそ300世帯が疎開してきたといわれています。
(宮崎沖縄県人会・桃原清吉会長)
「ここも長屋の名残かな。航空会社の社宅やったのが、いっぱいあったんですよ、この辺はずーっと。だから道も碁盤の目になってるでしょ」
長屋は、川崎航空という航空会社の社宅で、沖縄から疎開してきた人たちの多くが住んでいました。
(宮崎沖縄県人会・桃原清吉会長)
「家もただ、土地もただ、っていうようなことを、どっかでうわさで聞いて、ここに来て住みついたっていう方もいらっしゃる」
平和の礎には、沖縄戦で犠牲となった約24万人の名前が刻まれていて、その中には1854人の宮崎出身者の名前もあります。
教室には真剣なまなざしで話を聞く児童たちに交じり、平和の礎を見つめる1人の男性がいました。
山内武さん、87歳。
1944年、5歳の時に波島地区に疎開、沖縄に残った父や祖母を亡くしました。
山内さんは当時を振り返ります。
(山内武さん)
「昭和18年、ちょうど今ごろ、すごく幸せやった。父親が、農作業を終えて、私を喜ばすためにカマキリを獲ってね…平和な親子のひとときでした」
幸せな生活は一変。
1944年、沖縄本島での地上戦を見据えた国が、一般疎開や学童疎開を始めます。
父と祖母を沖縄に残し、母と生まれたばかりの弟と3人で疎開することになった山内さん。
宮崎への道のりも死と隣り合わせでした。
(山内武さん)
「熱中症で亡くなる人もおった、船の中でね…」
山内さんたちは約2週間後、波島に到着。
生活を支えてくれたのは、「沖縄」で繋がる人たちでした。
(山内武さん)
「ここは(波島は)、沖縄の人、故郷の人がいっぱいおったからね。だから、沖縄を離れたという気分はない。寂しいこともない」
幸せで当たり前の日常を、戦争によって奪われた山内さん。
同じ思いを二度と誰にもさせたくない。
その思いが山内さんを突き動かします。
(山内武さん)
「こんな暑さ、6月の暑さのなか、弾は飛んでくるしね、大変な思いをしたのが、戦場におる住民なんですよ。なんで住民まで、そういう悲劇を負わなくてはいけませんか。生き地獄の中をあれ(大変な苦労を)したから、これはほっとくわけにはいかん、少しも浮かばれない。元気の間は、口にしたら…そういう思いでやってます」
平和の礎には、父・與竹さんの名前も刻まれています。
常盤さんが、與竹さんにどんな言葉をかけたいか児童たちに問いかけました。
(児童)
「平和な世界を続けていきます」
(児童)
「もうこのこと(戦争)が二度とないように、努力し続けます」
授業の最後に、山内さんは子供たちに熱く語りかけました。
(山内武さん)
「いい戦争がありますか?戦争は本当に人間を苦しめるものであります。戦争をやったらいかん、という思いを続けたらいいと思います」