番組表

2025年06月03日 18時43分
戦後80年・真珠湾攻撃で21歳で命を落とした男性の親族がたどる足跡
続いて特集です。
シリーズでお伝えしている「戦後80年~過去を知る未来に伝える~」。
こちらは、真珠湾攻撃に出兵し、帰らぬ人となった旧高崎町出身の男性です。
戦後80年を迎える今年、親族が男性の生まれ故郷を訪ねました。
「小春日和の青空を朗らかに飛んでいます。太平洋の暴風を制圧せんがために、一意専心猛訓練です」
1941年4月、鹿児島県で訓練に励んでいた男性が家族にあてた手紙。
これから始まる戦争を見据え、自身を奮い立たせる言葉が綴られています。
この手紙を書いたのは旧高崎町出身の南崎常夫さん。
高崎高等小学校を卒業後、旧海軍に志願入隊しました。
「加賀急降で、爆撃隊が航空母艦を爆沈するのも近き将来のことでしょう」
「若人より意気と熱を除去したら屑でしょう」
1941年12月8日、4年近くに及ぶ太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃。
三等飛行兵曹だった南崎さんは、ハワイにある敵戦艦に向けて急降下して爆弾を落とす急降下爆撃機の搭乗員として攻撃に飛び立ち、そのまま消息を絶ちました。21歳の若さでした。
(酒井輝久さん)
「スポーツも学業も優秀で、やんちゃだったそうで、ガキ大将のような感じだったので、近所の人も常夫さんのことを、亡くなったあとでも話に来たがっていたという人気のある人だった」
こう話すのは福岡市に住む酒井輝久さん。
南崎さんの姉にあたる祖母から手紙を受け継ぎました。
(酒井輝久さん)
「祖母が常々、弟さん(南崎常夫さん)のことを私たちに話していて、どうしても一冊の本にまとめたいと言っていたので、その思いが心の中にあった」
亡き祖母の願いをかなえようと、酒井さんは今年2月、家族とともに南崎さんの生まれ故郷・都城市高崎町を訪れました。
南崎さんの甥にあたる方から聞いたのは、戦時中と戦後で大きく変わった南崎さんの評価でした。
(酒井明子さん)
「戦時中は「軍神さま」とあがめられていたが、戦後は戦争をはじめた人と言われていて、戦中と戦後でがらっと変わってしまって。都合のいい話だと思うんですよね。あがめておいて、でも戦争をはじめた人と言われても好きで始めたわけではないし、なんか不条理さは感じる」
このあと、南崎家のお墓に向かい、墓前で手を合わせました。
「暮石の側面や石碑には、真珠湾攻撃で南崎さんが乗った爆撃機の様子が綴られている」
(酒井輝久さん)
「まず、父が亡くなったことを伝えて、祖母もまた来たかったんだろうなと思って、ようやくみんな来られたんだよと伝えた」
祖母から聞いてきた南崎さんの生きた証に触れた酒井さんたち。
(酒井輝久さん)
「単純に真珠湾で亡くなったとしか思っていなかったので、やはりそういう人が身内にいて死の覚悟をもって言っていたということを聞いて、辛い気持ちになった。祖母の気持ちも分かるようになった」
(酒井明子さん)
「自分たちがただ生まれてきただけではなく、ルーツを知れば生かせる。どう生きていくか、一日一日無駄にしないように、明日をも知れぬという環境の中でひりひりした中で生きていた人がいたことを私たちは知ったので、一生懸命生きなきゃと思った」
酒井さんの長男で小学3年生の雄介さんにとっては、遠い昔の出来事と感じていた戦争を我が事と考える機会になったようです。
(酒井雄介さん)
「親族に戦争に行った人がいたことを知れて、そういう人(戦争に行く人)がいたら、日本の人口も減って、日本が潰れてしまうので、そういう人を増やさないようにこれからも努力した方がいいと思った。友達からまず知らせていって、まわりの大人たちでも知らない人がいると思うので、こういう人がいるというのを知ってもらいたい」
取材協力:南九州文化研究会 稲田哲也さん