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2017年08月14日

終戦から72年・・・戦時中に撮影された1枚の写真(8月12日放送)

今月15日の終戦の日を前に、戦争と平和について考えました。
今回取材したのは、この1枚の写真です。

戦時中の1枚の写真

しかし、いつ、どこで撮影されたのか、また写っている人が誰なのか全くわかっていませんでした。
今回この写真について取材をする中で、宮崎での戦争の様子が見えてきました。

夏休みシーズンを迎え、慌ただしさを増す宮崎空港。あちこちで帰省客を迎えるあたたかい笑顔が広がっています。その光景を目にして想像する人はほとんどいないでしょう。
72年前、ここが壮絶な悲劇の舞台であったことを。。。

現在の宮崎空港の様子

時は昭和18年。太平洋戦争の真っ只中に、後の宮崎空港となる場所に日本海軍赤江飛行場は完成しました。全国から集まった海軍航空隊のパイロットを養成する練習基地として設置されたのです。
赤江飛行場のすぐ側に住んでいた当時13歳の川崎好さん(87歳)は、完成した飛行場に目を輝かせました。
「滑走路が出来て、2階建ての兵舎が3棟くらい並んでいた。双発の軍用機の離着陸の訓練をしていた。」と川崎さんの目に写った当時の光景を話してくれました。

川崎好さん

 

そして長崎の大村海軍航空隊で訓練を受けていた庭月野英樹さん(91歳)は当時の訓練生の様子を思い出しながら語ります。

庭月野英樹さん

「猛暑の中、毎日飛行場の周りを走らされ、野球のバットで尻を打たれた。誰か一人ミスをすると連帯責任を取らされた。みんな兄弟以上の存在だった。

終戦の前の年、資源が乏しくすでに戦争の継続が困難な状況だった日本。優位に立つアメリカ軍に一矢報い形勢を逆転出来ないかと、日本軍が決断した最終手段。それが特別攻撃隊の編成でした。
成功しても死は免れない、まさに必死の攻撃。

海軍のパイロットだった庭月野さんも、特攻隊員に任命されました。
親兄弟、恋人、親戚が幸せになる道を開きたいというのが逝った人たちの気持ちや心だと思う。自分もそう思っていた。」とその時の壮絶な気持ちを話してくれました。

多くの命を失った特攻作戦。
特攻展の展示資料は平和な時代に生きる私たちに、宮崎にも凄惨な戦争の歴史があったことを伝えます。
宮崎の特攻をテーマにしたこの特別展に毎年携わっている一人の男性がいます。南九州文化研究会の稲田哲也さんです。

稲田哲也さん

「17、18歳の人生一番楽しい時期に最終兵器に乗って明日死ねと言われて特攻で死んで逝った若い方々をなんとか伝えることは出来ないのかと思った。」

戦時中の若者の写真

「たくさんの方に見ていただくことが彼らの供養になっていると思う。」と、この展示を始めた動機を話してくれました。

特攻展の展示会場の様子

戦争の歴史を風化させないために毎年展示を行う稲田さんの元に、一枚の写真が届けられました。
昔家に下宿していた海軍の兵隊さんが残していったものだということでした。その本人が亡くなられて自分が持っていても仕方がないので稲田さんの元へ持ってきたとのことでした。

戦時中の1枚の写真

写真をよく見ると、奥の方に他の機体の尾翼が写っているのがわかります。それを拡大してよく見て
みると「ミヤ=宮崎航空隊/308=飛行機の型番」と記してあり、赤江飛行場で撮影されたかなり希少な
写真だということがわかりました。

模型作家の高橋祐二さんは、稲田さんの以来を受け写真が撮影された状況を精巧に再現しました。
「ご家族のもとにみなさんがお帰りになりたいだろうな。」と模型を見ながら話します。

模型作家の高橋祐二さん

「もしかしたら自分の父なり兄なり叔父なりという方が絶対に日本のどこかにいるわけだから、この写真を受け取った自分たちがそれを届ける義務があるんじゃないかとひしひしと感じる。」と稲田さんは写真への思いを語ります。

戦時中の写真を託された稲田さんは、会社員として働きながら戦史の調査や研究を行なっています。
「今の宮崎空港を見ても想像できないけれど、72年前の宮崎は戦場。敵の兵隊が陸上を動き回ることはほとんどなかったけれど、敵の飛行機が連日飛んできて銃撃を浴びせるような悲惨な戦場だったんです。」と当時の状況を話します。

戦時中、赤江飛行場で撮影された一枚の写真。宮崎航空隊を示すミヤの文字。若者たちが冬服を着用していることから、昭和19年1月~3月頃に撮影されたものと推測されます。
悪化の一途をたどる日本の戦況。もともと練習基地として誕生した赤江飛行場は、沖縄戦への重要な中継基地へと変わっていきました。
そこにアメリカ軍は目をつけたのです。
昭和20年3月18日、宮崎はついに空襲の標的となりました。アメリカ軍の攻撃機64機に対し、日本の迎撃はありませんでした。

空爆写真

その様子を目の当たりにした川崎さんは「ものすごいグラマン(戦闘機)が来た。64機の米軍機が一方的に爆撃や機銃掃射を行なった。目の前で瞬く間に飛行場がもくもくと燃えていった。」と当時をふり返ります。

日本の戦況はさらに悪化し、赤江飛行場は特攻隊の最前線基地となりました。
空襲の3日後に出撃した菊水部隊 銀河隊を皮切りに、赤江飛行場からの特攻はおよそ2ヶ月に渡って続きました。かつて宮崎航空隊で訓練を積んだあの青年たちも、南の空へと飛び立ったのかも知れません。
木更津航空隊に配属された庭月野さんにも、特攻の時が訪れました。

19歳の庭月野さん

「最高速・最新鋭の偵察機「彩雲」. . .これが俺の棺桶か. . .。20・30機一緒に行って、何機かで相手
の軍艦をやっつければ、相手の戦意を挫くことができるんじゃないかと思っていた。」
と当時の気持ちを語ってくれました。
勝ち目がないことは誰もがわかっていました。それでも隊員たちに迷いはありませんでした。
当時19歳の庭月野さんは800kgの爆弾を積み込み、日本のために命を賭けて飛び立つはずでした。

しかし昭和20年8月15日、終戦。
庭月野さんの出撃を前に、戦争は終わったのです。

「とにかく家に帰ることしか考えてなかった。帰ったら微熱が続いてずっと寝ていた。その間に戦死した仲間たちのことをノートに書き綴った。」と当時の心境を語ってくれました。

「参りましたと言えば沖縄もあんな悲劇はなかったし、特攻という制度もなかったはず。その当時の軍のやり方がいけなかったと思う。沖縄がやられても本土決戦をして勝つんだという馬鹿げたことを考えるからこんなことになるんだ。」と川崎さんは消えることのない複雑な思いと怒りを露わにした。

現在宮崎空港近くには、宮崎特攻基地慰霊碑があり、宮崎基地に関係する陸海軍の航空兵など合計801人の御霊が祀られています。

宮崎特攻基地慰霊碑

赤江飛行場の歴史を刻む一枚の写真について、京都の遺族会から情報が寄せられました。

関西白鴎遺族会の加藤昇さん(95歳)は「おそらく海軍飛行予備学生だと思う。胸に白い名札をつけている6名が私より一期下の14期。そして一番右の立っている人が私と同期の13期の教官だったと思う。そして、最前列の一番右の人と真ん中の座っている左の人が教員。
教官1人、教員2人、練習生6人の集合写真だと思う。」と推測してくれました。

推測された写真

 

第14期海軍飛行科予備学生の人数は3323人。本人の特定、遺族の調査にも長い時間がかかりそうです。
終戦から72年。高齢化により戦没者を直接知る遺族も少なくなる一方で、身寄りのない遺品が集まる場所があります。それは宮崎県護国神社 遺品館です。護国神社の山田勇徳さんはこう話します。
「ご遺族の方から持ち込まれるものがほとんどで、戦争の歴史を風化させないためにも寄贈する方が多い。遺品も大切だけど、戦没者を偲ぶことが一番大切だと思っている。」

護国神社内にある遺品館

 

ー戦争は絶対にしてはならない。相手を殺さなければ自分が殺されるー 庭月野英樹さん

ー人間の正常な考え方が狂ってしまう。戦争は絶対にしてはいけない。ー 川崎好さん

ー日本人として戦争を忘れさせてはいけないと思う。
  若者が知ろうとすることが、戦争の継承に繋がると思う。ー 稲田哲也さん

今ある平和の形は、戦時中の若者たちが尊い命をかけて守りたかったものなのです。
その歴史から目を背けず、これからも平和の意味を考えなければならないと思います。

一枚の写真は、72年の時を越えてそれを教えてくれたのかもしれません。

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