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2014年10月02日

No.22 石松伸一さん(都城市出身)(2014年9月20日・27日放送)

1995年3月20日。突如東京都内を襲った前代未聞の大事件 地下鉄サリン事件
通勤ラッシュで混乱する地下鉄の車内で、オウム真理教の信者によって猛毒ガスサリンが撒かれました。
死者13人、負傷者6000人以上。事件当時、被害をもたらした原因物質がサリンと特定される前から救急医療現場の最前線で救命活動に励む男性の姿がありました。

都城市出身の医師 石松伸一さん
「自分の中ではこれはサリンかもしれないと思う前に ”なぜそういうものが東京で使われるんだ?”という意識の方が強かったように覚えています。」と石松さんは当時の心境を語ります。

地下鉄サリン事件の様子

東京都中央区の聖路加国際病院
大都会の中心部に位置し、100年以上の歴史を持つ大規模総合病院。
現在この病院で副院長、救命救急センター長を務めるのが石松伸一さんです。
センターでは1日に平均125人の救急患者が来院し、12人の医師が交代で勤務しています。
この慌ただしい救命救急の責任者として、石松さんは日々人の命と向き合っています。

聖路加国際病院

 

19年前、事件は複数の駅で同時に発生しました。駅の近くにある聖路加国際病院には次から次へと患者が運ばれ、その光景はただ事では無い未曾有の出来事を予感させました。
「事件の日の月曜日は私の上司がお休みだったので、救急部の中では私が一番年長者の立場だった。東京消防庁からの直通電話が鳴って、 ”茅場町駅で爆発事故が発生したらしい、そちらの病院は重症患者を何人くらい引き受けられますか?”と聞かれ、その時の外来の具合を見て4~5人は大丈夫だと言って電話を切った、というのが第一報でした。患者さんを連れてきた救急車の後ろのドアを開けると、焦げ臭いにおいが何もせず、患者さんは普通の服を着ていました。患者さんは頭が痛い、目が痛い、吐き気がする、息が苦しい、と訴えている。その時に救急隊の人に ”爆発じゃなかったの?”と聞き返した。すると救急隊の人が、 ”我々にはわかりません、駅のホームまでは入っていません。駅でいっぱい人が倒れているからこれからたくさん患者さんがきますよ。”とだけ言い残して、普通は引継ぎをして帰るんですがそれもせずに救急車に帰っていたので、あれ?おかしいなと思った。」と石松さんは当時の混乱した様子を話します。
事件の重大さをいち早く感じ取った当時の院長・日野原重明さんは、スタッフ一同に非常事態宣を出しました。
外来診療など中止しすべての患者を引き受ける。
その時石松さんは「無茶な判断をされるなと思ったけれど病院長がそう判断されたなら我々はやるしかないと思った。ぐずぐずできない理由を並べるのではなく淡々とやるしかない。」と思ったそうです。

非常事態宣言の会見の様子

事件当日病院には全体の搬送者数のおよそ9割およそ640人が集中しました。
空いていた病室80床があっと言う間に埋まり、院内にある廊下やチャペルでさえも、救護室へと変わりました。多くの患者を診察する中で、石松さんは共通するある症状に気づきます。
「患者さんを見ていると程度の差はあるものの症状が同じだった。程度が軽い人は瞳孔が小さくなり鼻水やよだれがダラダラ流れる症状があって、前にいた病院でよく見ていた農薬の有機リン中毒に近いなと思った。しかし農薬は自分で飲むか撒いて吸い込むかしないとならないので、これだけ大勢の人が同時に農薬を飲むことは考えられないので、これはおかしいな思っていた。症状がぴったりだったので、少なくとも農薬中毒の治療の一部は開始しようかという話になった。」と石松さんは話します。

この時過去の経験から石松さんの頭に一つの薬が浮かびました。
しかし、その薬を使うには慎重にならざるを得ない理由がありました。
「その薬が有機リンのある種類では症状悪化させる可能性があるといわれていたので、特効薬・解毒薬だからなんでも使ってしまいではなく、もし今これだけいる患者様に使うと、もしかしたら症状がギリギリで止まっている患者の症状が一気に進むと治療することによって命を落とす患者様が出るのが一番まずいと思った。」と石松さんは話します。
刻々と過ぎていく時間。
石松さんは解毒剤の使用を決めました。
「解毒剤が病院に何本かあったけれど、使うとしたらICUの患者様から使ってみようと思った。ICUにいる患者様であれば使って副作用が出たとしてもすぐに対処ができるので。薬の投与から十数分後、ICUの先生から “効きました。”と報告が来たので、他の具合の悪い患者様にも使いましょうということにしました。」薬が効いたとき、少なくとも効かなかったり悪さをすることはなさそうだと実感したのでほっとしたそうです。

多くの人たちを襲った中毒の正体は猛毒のサリンでした。
一刻も早い治療が求められる中、病院スタッフの最大限の努力、そして石松さんの判断が被害を食い止め多くの命を救いました。

日野原医院長

当時院長の日野原重明さんは「彼は入院させる患者様をどこに持っていくべきか、軽い患者はここにおきましょうというようなことは先生が決めて、そして640人もの患者を診た。一人だけ女性が入院後3週間後に亡くなったんですが、あとは約1週間でほとんど皆よくなって退院したということで、その貢献が非常に大きいと思っております。」と話します。

 

事件から19年経った今、石松さんはあの日のことをこう振り返ります。
「確かに気持ちが非常に高ぶっていたと思いますけど、何かをしてやろうということよりもまず目の前のことを淡々とやって普段の仕事を変わらないように淡々と仕事をこなそうと思っていましたし、そうしてきたつもです。そういった意味では特別な日というよりも普通の私たちの救急医の日常のうちの一日だから、たぶん日本でおこる災害も事件もその日のうちの一日なのかも知れません。」

石松さんは都城市で産婦人科を開業する父親のもと、三人兄弟の長男として誕生しました。幼いころは引っ込み思案で内気な少年だったといいます。
石松少年は外の世界への憧れを胸に中学高校は宮崎市の日向学院に進学。寮生活をしながら医師を志すようになります。
はっきりと医学部を受験しようと思ったのは高校2年生の時
その時受験しようと自分の気持ちを後押ししたものは父親の期待でした。
その後川崎医科大学に進学。父親伸也さんの「産婦人科を継いでほしい」という思いとは裏腹に石松さんは父親の反対を押し切って救急医を目指し始めます
「中高大とここは頑張るぞと自分が勉強なり仕事なりしてきたことがなかったので、せめて社会人になる時くらい一番きつい道を行ってみようかなと思った。一番きついところへ行って自分を試してみたかったという気持ちがありました。これだけは自分で決めてしまいました。」と石松さんは話します。

幼少時代の石松さん兄弟

 

自分を追い込もうと自ら志願した救急医の道
しかし、研修医としての下積み時代は決して楽なものではありませんでした。
「今考えるときついというよりはとにかく年がら年中眠たかった。3日に1回当直があって、あの時はポケットベルがあってしょっちゅう鳴るんです。いつも夜中もずっと鳴るので捨てたいと思ったこともありますけど、そうもいかない。当時は「今日は夜中でもみてもらっといて良かった」と言われたことがあったり、感謝の言葉がやりがいに繋がっていました。」と石松さんは当時を振り返ります。

その後石松さんは日野原医師のスカウトで聖路加国際病院へと招かれました。
「聖路加国際病院の救命救急センターにいい人を迎えたいということであちこちからスカウトしていたんですが、石松先生以上の人はいなく聖路加国際病院に来られてもう20年以上です。石松先生は病院の業務のもっとも大切な人の命がどうなるか分からないところ、そうゆう全体の総司令官でありますのでこのような人もつことは私にとって非常に大切で喜んでおります。」と日野原名誉院長も話します。

石松さんが聖路加国際病院に赴任してからわずか二年後に起きた地下鉄サリン事件は、救急医石松さんの考えにも大きな影響を与えました
石松さんは19年経った今、ようやく理解できた言葉があると話します。
「救急をやる人は知識・技術もそうだけど医療に対する心を鍛えてほしい。いわゆる大風呂敷を広げろではなく、いつサリン事件のような日があったとしても通常の業務の延長として淡々とやる。自分の考えがそうなってきた時に、日野原先生が「全てを引き受ける」とおっしゃった気持ちが少し分かるような気がしてきたんです。だいぶ時間がかかりましたが。」

全ての患者を引き受ける」すなわち「断らない救急医療」。
過去の経験も経て、石松伸一医師が掲げる救急医療のあり方となっています。

断ることが何も解決につながらない。むしろ全部引き受けてやる。患者さんのベストを考えれば理解してもらえない患者さんはほとんどいないと信じています。」それは聖路加国際病院救急部が掲げるブレない方針です。

先月26日午前6時。
石松さんの一日が始まりました。
他のスタッフがまだ来ない中、石松さんは毎朝5~6時くらいには病院に入ります
朝ミーティングが始まると多忙な一日が始まるため、唯一自由に時間を使える朝の時間を使って確かめておきたいことなど行うそうです。
白衣を身にまとい向かった先はICU(集中治療室)です。
患者の容体を確認します。
次に行ったのはベッドの空き状況を確認
より多くの患者を受け入れるため、副院長の石松さんが自ら確認を行います。
「ICUから出られる人は出し、次に来る患者のために空けて待っておく。患者が来てからの判断というわけにはいかないので可能な限り空けて用意しておくために朝のうちに部屋の調整が必要。」だと話します。

石松さん

作業を続けていると突如救急患者搬送の連絡が・・・
駐車場にかけつけ救急車の到着を待ちます。
酔っ払って大暴れし警察が5~6人でもおさえられない外国の人が、頭に切り傷があって出血しているとの情報。どこの病院も引き受けない患者さんを石松さんは引き受けます。この患者さんは幸い頭の中に傷はなく、表面の傷だけでした。アルコールで怪我をして運ばれて来る患者さんは多いと言います。

石松さん

 

東京消防庁管内では、去年の救急出動件数が約75万件。42秒に1回の割合で救急隊が出動しています。
東京消防庁 京橋消防署では朝出動して午後過ぎまで一度も帰ってきていない状況、つまり現場から現場に連続して出動しているのが日常的な状況だそうです。
運ばれる患者は軽症者や心肺停止の重傷者の他、中には泥酔した人や薬物中毒者など受け入れ側の病院としてつい目を背けたくなるような患者がいるのも事実です。
そんな中石松医師の「断らない方針」は、一刻も早く医療機関へ搬送しなければならない救急隊として非常にありがたいことだと話します。
昨年度、聖路加国際病院の救命救急センターが受け入れた救急車の数は1万742台
これは全ての救急車受け入れ要請の約9割にあたります。
東京でこれだけ断らないで患者さんを迎える病院はないのではないかということで表彰されました。決して言い過ぎではありません。本当に立派な役を果たしてくれていることを非常に嬉しく思っている。」と日野原名誉院長も話します。

東京消防庁の京橋消防署の三重野さん:石松さん

石松さんが断らない救急医療を掲げこだわるのには理由がありました。
「患者さんがまずやって欲しいのは入院させてほしいのではなくて、診察・最初の治療をして、入院が必要かどうか本当に手術が必要かどうかを判断するのが我々の仕事であって、他の緊急手術をやめさせてとまで言う患者は絶対にいないので我々から説明してあげれば今の医療不信もなくなるのではないかと思う。自分の病院で入院や手術ができなくてもまずは最初の初期治療をしてあげようと思った気持ちは伝わっていくのではないのかなと思う。」

できる限りの最前を尽くす。

石松さんは常に患者の気持ちを相手の立場に立って考えます。
そこには大切にしているある言葉がありました。

「一期一会。

救急医にとっての一期一会はまた別の重みがあって、実はこの救急医療は患者さんとの出会い・別れがものすごく短い方がいる。初めて患者さんに会ったけどその30分後には永遠の別れみたいなものがあって、付き合う、関わる時間が短いからなおさら出会いと別れを大事にしたい。出会いは「断らない」ということかも知れないし、別れは突然来るかも知れないので。」
石松さんが思い描く医療のかたち。
それは自身の過去の経験を踏まえようやくたどり着いた患者との向き合い方でした。

 

先月16日、宮崎に石松さんの姿がありました。
7年ぶりだと話す石松さんが訪れたのは母校 日向学院の同窓会です。
今回は参加者の多くが現役医師です。寮生活を共にした同級生たちと懐かしい話しに華を咲かせながら時を過ごしていました。

石松さん

石松さんにとって宮崎は「昔と変わらないのでほっとする。何がほっとするのか口ではうまく言えないけれど妙にほっとします。そこに懐かしい面々がいるということはありがたいことだと思います。」と話します。

 

宮崎で生まれ育ち、外の世界へ羽ばたいた石松さん。
地元で産婦人科を開業していた父親の反対を押し切って、救急医の夢を叶えました。
「人はどこかで必ず疑問を持ち出します。持ち出した時にはそれまで来た道が全部方向を変えるようなある意味社会からみると挫折と言われることが来るかも知れないので、もし機会があたら1回はどこかで親に反発してみるのもいいにかな?人生の中でで、それまで親の責任で育ってきたのを自分の責任に変えざるを得ない時が来るので、それを早めにやっておいた方がいいのかなと思う。」
と石松さんは語ります。

石松さんが聖路加国際病院に来てから21年。
命の現場で人を育てること。これも仕事の一つです。
若手医師は「来る患者さんが何かを求めてくるからそれに応えなさいという考えの先生で、それを体現している先生はなかなか少ないので、近くにいて盗めるものはないのかなと思っています。」と話します。
石松医師も「自分が言ったことなのでちゃんと続けなきゃと思う。自分はまだ若い先生にまだ育ててもらっている部分があって、いつも下から突き上げられているのかも知れませんね。」と話します。

石松さん:長嶺さん

そんな石松さんの考えを継ぐ若手医師の姿が宮崎にもありました。
県立宮崎病院の救命救急科でドクターカーを担当する長嶺育弘さん34歳です。
長嶺さんは「「誰でもどんな人で24時間必ず受け入れなさい。断らないようにしなさい。」ということを積極的に必ず実践していらっしゃったのが一番振り返って思うことです。聖路加国際病院を出たことは実践していきたいし、石松先生から学んだできるだけ全ての患者を受け入れるということを若い先生に伝えていけたらいいなと思います。」と考えています。

「確かに忙しいし辛いところもいっぱいあると思うけれど、そういったのを乗り越えて何十年後かに医者をやっていて良かったと思っていてほしい。」と石松さんは話します。

石松伸一さんから医療をめざす若者たちへ。
「もし機会があれば宮崎で医療に携わる先生は一度宮崎・九州から出て、外から九州・宮崎を見てほしい。一度外に出るとその町の良さや悪さが見えてきて、自分の中で気持ちがはっきりするので、そういった意味を持って帰ってもらえるとなおさら仕事や生活がしっかりできるのではないかなと思います。」

最後に石松伸一さんにとっての救急医療を尋ねました。

救急医療=究極の慢性期医療

救急医療は急性期医療で、最初に患者が運ばれてきて時だけ関わるという考え。だから最初の時しかなくてあとは他の先生にお願いする傾向はありますが、目の前のごく一部のことだけ見ていては自分の判断・方向が決まらなくて、その人の先々の長い一生、あるいはそれまでの病院に来るまでの長い一生のことや価値観を考えてあげないと一番良い判断はできないと考えています。
だから救急医療=究極の慢性期医療です。」と石松さんは話します。

石松さん

患者さんのこれまでの人生やこれからの未来。
一人の人間として長い目で見据え、向き合い、判断すること。
今を必死に生きようとする患者にとってその考えは最も寄り添った救急医療の在り方なのかも知れません。
1分1秒を争う命の現場で石松さんはこれからも人の命と向き合っていきます。

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